大判例

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東京高等裁判所 昭和54年(う)2531号 判決

主文

本件各控訴を棄却する。

理由

本件控訴の趣意は東京地方検察庁検察官検事川島興作成名義の控訴趣意書に記載のとおりであり、これに対する答弁は被告人大島の弁護人内田剛弘、同儀同保、同糠谷秀剛、同秋山幹男、同羽紫駿、同森谷和馬、同水島正明連名作成名義の答弁書及び被告人竹村の弁護人田口康雅、同今村俊一連名作成名義の答弁書にそれぞれ記載されたとおりであるから、ここにこれらを引用し、これに対して当裁判所は次のとおり判断を示す、

所論は、判例違反、事実誤認、理由不備のほか法令の解釈、適用の誤りを主張するが、結局は原判決が、単行本「愛のコリーダ」中の本件起訴にかかる部分はいずれも刑法一七五条にいうわいせつの文書・図画にあたらないとして被告人らに無罪を言い渡したのは、同条の解釈、適用を誤つたものであるというのである。そこで、記録及び原審取調の各証拠に当審における事実取調の結果をも加えて各所論につき遂次検討することとする。

一所論は、まず、原判決は、刑法一七五条にいう「わいせつ」の一般的意義については「徒らに性欲を興奮又は刺激せしめ、かつ、普通人の正常な性的羞恥心を害し、善良な性的道義観念に反するもの」とする従来の最高裁判例の定義に従うとしながら、わいせつ性の判断基準をなす社会通念は時代の変遷につれて変容し、今日においては本件起訴にかかる部分はわいせつの文書・図画にはあたらないとするが、いわゆるチャタレー事件最高裁判決(昭和三二年三月一三日大法廷判決・刑集一一巻三号九九七頁)は、性に関する社会通念の変化にかかわらず超えるべからざる限界としていずれの社会においても認められ、また一般的に守られている規範として性行為非公然性の原則が存在する旨判示し、これによれば、性行為非公然性の原則はわいせつ性の判断基準としての社会通念の中核と解すべきところ、原判決は、右性行為非公然性の原則についていかなる立場をとるのかなんら判示しないまま無罪判断を導き出した点において、原判決には理由不備の違法があるかあるいは規範的概念たる社会通念についての解釈を誤つた違法があるというのである。

しかし原判決は、刑法一七五条にいう文書・図画の「わいせつ」の一般的意義については、チャタレー事件判決を含む累次の最高裁判例の定義に従い「徒らに性欲を興奮又は刺戟せしめ、かつ、普通人の正常な性的羞恥心を害し、善良な性的道義観念に反するもの」とするとともに、わいせつ性の有無の判断についても、結局は社会通念に従う旨判示しているのであり、右判断はもとより正当であるから、さらに進んでいわゆる性行為非公然性の原則について原判決が言及していないことをもつて、所論のような理由不備ないし判例違反などの違法があるということはできない。論旨は理由がない。

二次に所論は、原判決が、普通人(通常の社会生活を営み、当該社会における常識をわきまえた人々。以下同じ)の性表現物に対する「馴れ」、「受容」及び捜査機関による「放任」の程度を重要な資料とし、さらに性表現による各種領域における社会的諸価値実現の要請をも考慮に容れて、社会通念における性表現程度許容の目安を見出さなければならない、としたのは誤りであると非難する。

社会通念が如何なるものであるかの判断は、判例上、事実認定の問題ではなく法的評価の問題であつて裁判所に委ねられているところではあるが、それが所によつては必ずしも同一ではなく、また同一の社会においても時の経過により変遷することがある以上、その判断を委ねられた裁判所が性表現に対する普通人の意識を重要な資料のひとつとすることは決して不都合なことではない。もとより、普通人の性表現に対する馴れ、受容の程度を的確に把握することはきわめて困難であるばかりか、巷間に流布されている性表現物のすべてが普通人に受容されているとは限らないのであつて、これを性表現程度許容の唯一の目安とするようなことは、わいせつ性の判断が捜査官憲の取締の実情に左右されるという不合理な結果を招来し、とうてい許されるべきでないことは論をまたないところである。しかしながら、原判決の「馴れ」、「受容」及び捜査機関による「放任」の程度を性表現程度許容の目安を見出すにあたつての重要な資料とするとの趣意が、決して右のような趣旨にでたものでないことは、原判決がこれらを重要な資料としたうえで、一面、性表現による様々な領域での社会的諸価値実現の要請をふまえ、他面、性表現が性に関する生活の秩序ないし健全な性風俗維持の要請に対して与える脅威の程度を測り、この両者の接点において、社会通念における性表現程度許容の目安を見出すのが妥当であるとしているところからも明らかであり、原判決の右判断自体が、本来、社会通念に関する資料としてとりあげてはならないものを判断対象としたと非難するのはあたらない。

さらにわいせつ性の判断と性表現の各種領域における社会的価値との関連について検討すると、わいせつ性の有無、程度と他の領域における社会的価値とは、所論の指摘するとおり別異の次元に属する概念であり両立しえないものでないことは、当裁判所もこれを肯定するものである。しかしながら、所論引用の悪徳の栄え(続)事件判決(昭和四四年一〇月一五日大法廷判決・刑集二三巻一〇号一二三九頁)が、わいせつ性と芸術性・思想性とはその属する次元を異にするとしながらも、「文書がもつ芸術性・思想性が、文書の内容である性的刺戟を減少・緩和させて、刑法が処罰の対象とする程度以下にわいせつ性を解消させる場合がありうることは考えられる」とし、さらには、いわゆる四畳半襖の下張事件判決(昭和五五年一一月二八日第二小法廷判決・刑集三四巻六号四三三頁)が、「文書のわいせつ性の判断にあたつては、(中略)文書に表現された思想等と右描写叙述との関連性、文書の構成や展開、さらには芸術性・思想性等による性的刺激の緩和の程度、これらの観点から該文書を全体としてみたときに、主として、読者の好色的興味にうつたえるものと認められるか否かなどの諸点を検討することが必要であ(る)」としているのであつて、これらの判例はいずれも、わいせつ性の判断にあたつてはその文書・図画のもつ芸術性・思想性等の社会的諸価値をも考慮に容れるべきことを積極的に肯定しているところであり、原判決の前記判断も、結局においてこれと同趣旨に出たものであることが明らかであるから、この点に所論のような判例違反はもとより法令解釈適用の誤りはない。右論旨も理由がない。

三所論は、原判決がわいせつの意義につき「徒らに性欲を興奮又は刺戟せしめ、かつ、普通人の正常な性的羞恥心を害し、善良な性的道義観念に反するもの」とした最高裁判例の定義にしたがうとしながら、よりこれを具体化した判断基準として、「文書・図画がわいせつと評価されるためには、(1)当該文書・図画中に過度に性欲を興奮、刺戟させるに足る煽情的な手法によって、性器、性交ないし性戯に関する露骨、詳細、かつ、具体的な描写(性表現)のなされていること(2)右のような描写が存在することにより、その文書・図画が全体として、好色的興味をそそるもので普通人の性的羞恥心を害する程度に卑わいであると評価されるものであることの二点が肯定されることを要し、右(1)(2)の各要件の存在(性表現の程度)を判定するには、普通人の間に存する良識、すなわち社会通念に従うべきであると考える。」としている点をとらえて次のように非難する。

すなわち、その等一は、原判決が露骨性・詳細性・具体性の三要素を必要としたのは、従来の判例が「露骨、かつ、詳細、具体的に」と判示して、露骨性と詳細ないしは具体性の二要素を定義していたのに反するというのであるが、従来の判例が所論のような判断を示しているというのは、必ずしもその文理解釈からくる当然の帰結とはいいえない。

第二に、原判決が「煽情的な手法によつて性描写がなされていること」及び「その文書・図画が全体として、好色的興味をそそるもので普通人の性的羞恥心を害する程度に卑わいであると評価されるものであること」を要するとした点は、いずれもわいせつ性の判断にあたつて作者の主観的意図をもちこもうとするもので、チャタレー事件判決が、わいせつ性の存否は純客観的につまり作品自体からして判断されなければならず、作者の主観的意図によつて影響されるべきものではないとした点に反するし、また、わいせつ性の有無は、文書等の全体との関連における考察を必要とするにせよ、あくまで当該部分について判断されなければならない性質のものであつて、文書等が全体として好色的興味をそそるものでなければならないとすることは、チャタレー事件判決、悪徳の栄え(続)事件判決等の従来の判例理論に反するというのである。

しかしながら、原判決の所論指摘部分の説示は作者の主観的意図をわいせつ性の判断にもちこもうとしたものではなく、文書・図画の描写それ自体から客観的にこれらの要件が充たされていることを要するとしたものであることは、原判文の表現自体から看取し得るところである。ところで、わいせつの意義については、徒らに性欲を興奮又は刺戟せしめ、かつ、普通人の正常な性的羞恥心を害し、善良な性的道義観念に反するものをいう、とすることはすでに確立した判例理論であるとはいえ、刑法一七五条の規定は憲法二一条に定める表現の自由と深くかかわりあうものであることにかんがみれば、原判決が、わいせつ性の有無の判断をより客観的なものとするために、最高裁判例の右定義に則してこれをより具体化する判断基準の設定を試みたことは十分に首肯し得るところである。この点について、さきに引用した四畳半襖の下張り事件判決は、「文書のわいせつ性の判断にあたつては、当該文書の性に関する露骨で詳細な描写叙述の程度とその手法、右描写叙述の文書全体に占める比重、文書に表現された思想等と右描写叙述との関連性、文書の構成や展開、さらには芸術性・思想性等による性的刺戟の緩和の程度、これらの観点から該文書を全体としてみたときに、主として、読者の好色的興味にうつたえるものと認められるか否かなどの諸点を検討することが必要であり、これらの事情を総合し、その時代の健全な社会通念に照らして、それが『徒らに性欲を興奮又は刺激せしめ、かつ、普通人の正常な性的羞恥心を害し、善良な性的道義観念に反するもの』といえるか否かを決すべきである。」と判示している。右の判示は、所論が引用する悪徳の栄え(続)事件判決にいうわいせつ性判断についての全体的考察方法の線にのつとつてこれをより具体化したものと解されるのであつて、原判決の説くところも実質的にこれと軌を一にするものであり、従来の判例に違反するものとはいえない。

四所論は、本件単行本自体を従来の判例によつて確立されている基準によつて検討してみても、そのわいせつ性は明らかであるとして、起訴部分につき逐一わいせつの文書・図画にあたる旨詳細な主張を展開する。

ところで、原判決の判断がわいせつ性の基準に関する従来の判例理論を踏みはずしているものでないことは叙上説示のとおりである。当裁判所は、わいせつの文書・図画の意義自体については、「徒らに性欲を興奮又は刺戟せしめ、かつ、普通人の正常な性的羞恥心を害し、善良な性的道義観念に反するものをいう」との従来の判例理論を踏襲するものではあるが、そのわいせつ性の有無の判断方法並びに基準については、過度に性欲を興奮、刺戟させるに足る煽情的な手法によつて、性器、性交ないし性戯に関する露骨、詳細、かつ、具体的な描写叙述のなされている文書・図画であつて、その文書・図画の構成や描写方法、その性的描写叙述の全体に占める比重や思想性・芸術性・学術性等との関連性を、その時代の健全な社会通念に照らして全体的に考察したときに、主として受け手の好色的興味にうつたえ、普通人の正常な性的羞恥心を害し、善良な性的道義観念に反すると認められるか否かによつて、わいせつ性の有無を判断すべきものと考える。

本件単行本は、製作代表アナトール・ドーマン、脚本・監督大島渚によつて制作された日仏合作映画「愛のコリーダ」の脚本全文を主体に、これに同映画の宣伝用スチール写真二四葉及び被告人大島の著作になる体験的ポルノ映画論ほかを掲載したものであつて、映画「愛のコリーダ」がいわゆる阿部定事件に題材を得たものであることは一見して明らかであるところ、右単行本のうち検察官がわいせつにあたると指摘する部分はスチール写真二四葉中の一二葉及び脚本部分一一七頁中の一三か所である。

まず、右のうち写真について検討するに、これらの写真は、いずれも性交、性戯中であるか、あるいはそのように見せかけるために演技している男女を撮影したものであることは所論指摘のとおりであり、直接性交の体位、性戯の状況を視覚に訴える作用を有することは疑いないところではあるが、しかしそれと同時に、これら写真の描写は、いずれも見る者をして性交あるいは性戯そのものよりも、映画の場面設定に合わせて構成された作品であるとの印象を抱かせる面があることは否定できないところである。また、これら写真には男女の性器自体をのぞかせる部分もほとんどなく、描写の手法としても特に性器の交合を思わせる部分に焦点をあてたりこれを強調するような撮影方法がとられているわけでもない。この意味においてこれらの写真はいずれも性交あるいは性戯中であることを連想させるに足る図画であるとはいえ、その撮影方法、図画の構成等において、過度に性欲を興奮、刺戟させるに足る煽情的手法によつてこれら姿態を描写したものとまではいえない。

さらに、脚本部分についてみると、公訴にかかる部分は、いずれも性交、性戯の情景描写及び「せりふ」であり、脚本としての性質上、性交等に関する直截、端的な演技指示等の表現が多いため、性交、性戯に関する露骨で具体的な描写叙述となつていることは肯定せざるをえない。しかしその反面、脚本はそれ自体として完結的なものではなく、さらに演出と俳優の演技、カメラのテクニックなどによつて肉づけされてはじめて完結するものであり、さらに本件控訴にかかる脚本部分についても、簡潔な描写に終始し、詳細な情景描写や心理描写に欠け、それだけに読む者の情緒、感覚、官能にうつたえるといういわゆる煽情的効果が減殺されていることも否定できない。しかも本件はいわゆる実在の阿部定事件に題材を求め、吉蔵と定なる男女の性愛をとおして二人の生き方を描いたものであり、その性的描写についてはみる者それぞれに評価を異にすることは見易い道理であるとはいえ、所論が問題とする性的描写の程度に関しても、本件の脚本全体との関連において考察するならば、主として受け手の好色的興味にうつたえ普通人の正常な性的羞恥心を害し善良な性的道義観念に反するとまではいえない。

そしてこのことは、所論が強調する写真と脚本との相乗・増幅作用の問題を考慮にいれても、いまだわいせつ性の有無を別異に解さなければならないほどのものを見出しえないし、原判決の「本件単行本がわいせつの文書・図画に該当するかどうかについて」と題する詳細な判断部分に実質的に影響を及ぼすような誤りを見出すこともできない。

結局、本件単行本は刑法一七五条所定のわいせつの文書・図画にあたらず、被告人両名がこれを販売し、販売目的で所持した行為は罪とならないとした原判決には所論の違法はない。論旨はすべて理由がない。

よつて、刑訴法三九六条、一八一条三項により主文のとおり判決する。

(菅間英男 高木典雄 松本光雄)

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